「身体というものは、見事に人の内面を表現しているなあ」

これまで多くの患者さんとお会いする中で、私はこのことを何度も痛感してきました。

医者を含めた医療従事者の中にも、同じ考えを持つ方は少なからずいるようです。(立場上、対外的に表明しているかどうかは別として)

だからこそ私も、患者さんの表面的な症状や病名だけを診るのではなく、その症状によって表現されている内面の葛藤に焦点を当て、それを解消していくことに力を注いできました。

もしもあなた自身や、あなたの大切な人が現在、病気に苦しんでいるなら、その病気は、いったい何の表現なのでしょうか?

病気を創ったのは誰なのか?

あなたは病気になった時、自分の健康を“奪われ”たり、“蝕まれている”ように感じたことはありませんか?

病とは、予期せぬ時に襲ってくる“敵”であり、“闘わなければならないもの”。そんな感覚を持っている方も多いでしょう。

しかしこの一見、「よくありがちな病に対する考え方」は、もしかすると偏った解釈なのかもしれません。そしてその偏った解釈が、私たちが本来持っている力を損なっている側面もあると私は考えています。

ここで、あなたの身体の内側で起きていることに目を向けてみましょう。身体の内側では、あなたが意識しなくても、心臓は動き、血液は全身に循環し、ものを食べれば胃腸で消化されますよね。

では、このように無意識のうちに、自動的に身体を機能させているのは、いったい”誰”なのでしょうか?

病気に関しても同じ視点から眺めてみると、新たな気づきを得ることができます。例えばガンなどの病気も「身体のこの部位にガンを作る」ことを決めている”存在”があるとしたら。それはいったい”誰”なのでしょうか?

この答えは、医学的にはまだ証明されていません。しかし、今まで沢山の患者さんや、病気を自ら終わらせた方々を見てきた私の結論は、自分の身体に起きていることを決めているのは“本当の自分”だと言う説がもっとも辻褄があうように思うのです。

私は、心理療法家のミルトン・エリクソン、ファミリー・コンステレーション創始者のバート・ヘリンガー、ハコミセラピー創始者のロン・クルツに傾倒し、彼らの技法を深く学んできましたが、例えばエリクソンは、15世紀の医師バラケルススの次の名言をよく使っていたといいます。

人はみずからがこうあると思い描けば、そのようになるのである。人が今あるその姿は、みずからがそうあると思い描いたものなのである。
(バラケルスス)

私も患者さんにお会いするときは常に、このことを頭においています。

自分の人生を生きていないとき、人は病気になる

しかし、病気について考える時、「誰もやりたくて病気をやってるんじゃない」と思うでしょう。それなのに、「みずからがそうあると思い描いた」結果が病気なのだとしたら、なぜ、このようなギャップが生まれてしまうのでしょう。

この疑問を解決するヒントは、「病気とは、“本当の自分”が発しているメッセージ」と捉えてみることです。

“本当の自分”は、病気を通じてどんなメッセージを伝えようとしているのでしょうか?人それぞれに、色んな考え方があると思います。

そして、私の感覚にもっともフィットするのは、病気とは「今のあなたは、本当の自分の生き方からズレているよ」というメッセージだということです。つまり、本当の自分の生き方からズレてしまった時、人は病気という表現を選んでいるように見えるのです。

「自分の人生を生きていないとき、人は病気になる」

メンタルトレーナーの梯谷幸司さんはこのようにおっしゃっていますが、私自身が医者として、多くの患者さんと向き合ってきた経験と照らし合わせてみても、私は、この梯谷幸司さんの言葉は本質をついていると思います。

医学的なエビデンスという点では、まだ解明しきれていない部分も多いのですが、私は経験的にこの言葉を支持していますし、医療従事者の中にも共感する方は少なからずいます。

自分で言うのもおこがましいですが、真摯に医療に向き合う現場の人間ほど、この言葉を実感を持って受けとめているのではないかと思うのです。

病気の背景にある「こうあるべき」の想い

人が本当の自分の生き方からズレる時。その背景にはさまざまな要因がありますが、そのひとつが「こうあるべき」「こうあってはならない」という“べき論”です。

日本の社会では“べき”を尊重する姿はむしろ美徳とされる風潮もあります。

しかし“べき”という言葉には、「それは自分が決めたものではない」という前提が含まれています。人が“べき”に囚われているとき、“本当の自分”は置き去りにされてしまうのです。

“べき”にとらわれて自分の想いを抑えつけたり、“べき”とする姿を叶えられない自分を許さないことが、病気の背景に存在している患者さんは非常に多いと感じます。

「こうあるべき」の想いが病気の背景にあった事例:

不安神経症に悩む40代の女性。3年前に勤務先で管理職になり、部下が顧客とのトラブルを頻発しているそうで、不安でいてもたってもいられないとのこと。

その不安の奥を探っていくと「私は完璧でなければならない」という強い思いがあり、完璧を実現できていない自分像とのギャップが不安を生じさせていたようでした。

ではなぜ、そもそも、この方は「私は完璧でなければならない」という信じこみを持ってしまっていたのか?カウンセリングでその背景を探っていくと、幼少期の頃、母親から周囲の子と比べられ、自分の足りないところを叱責された記憶が出てきました。

その体験の記憶から「私は完璧でなければ愛されない」と信じこみ、愛されるための戦略として、全てのことを完璧にこなすことに一生懸命努力されてきたのです。

その努力の裏には常に「完璧でなければ愛されない」という恐れがありました。そしてその恐れから、部下のトラブルを現実化させ、ご自身の不安神経症を発生させていたのでした。

自分の中の“べき”に気づいていますか?

私たちはいつから、これらの“べき”を自分の中に持つようになるのでしょうか?その多くは、上の例と同様、幼少期の親子関係での経験や、無自覚に受け入れてしまった世の中の常識などから来ることが多いようです。

あなたの中にも、「男は・女はこうあるべき」「これぐらいの年齢ならこうあるべき」「親はこうあるべき」「子どもはこうあるべき」など、探ってみると色んな“べき”があることに気づくかもしれません。こうやって、知らず知らずのうちに自分を縛っている“べき”が、病気の背景に隠れていることは多いのです。

ネガティブ感情は“べき”に気づくためのサイン

自分が持っている“べき”のルールから、自分やほかの誰かが外れたとき、私たちは怒りや苛立ちを感じます。たとえば、「女性は自立するべき。男性に頼ってはいけない」という信念を持つ女性は、男性に上手に甘える女性を見ると苛立ったりします。

要は、自分に許していないことを他の人が平気でやっているのを見るとうらやましいのです。

このとき、人は怒りや苛立ちを相手に向けてしまいがちですが、その怒りや苛立ちの根本的な原因は、その“べき”を採用している自分自身の中にあります。誰かに対して怒りや苛立ちを感じたときには、「私の中にどんな“べき”があって、その感情がうまれたのだろう?」と自分に問いかけてみると、今まで気づけなかった自分の信念が見えてくるかもしれません。

自分が無意識のうちに持っていた“べき”に気づけると、その信念をそのまま持ち続けるか、手放すかを選べるようになります。一方で、そもそも持っていることにすら気付かなければ、振り回されるしかありません。ですから「無意識のうちに持っていた“べき”に気づく」ことはとても重要です。

持っている“べき”をひとつずつ手放していったその先に、私たちは“本当の自分”を生きることができるのかもしれません。

さいごに

「本当の自分の生き方からズレてるよ」「本当の自分を思い出してね」という病気に隠されたメッセージを受け取り生き方を変えていく時、人は病気という表現を必要としなくなります。逆にいえば、そのメッセージを受け取らずにいれば、本当の自分から何度でもくり返しそのメッセージ(病気)が届き続けることになるのです。

「なんのために、私はこの病気になったのだろう?」「病気は何を教えてくれているのだろう?」そんな自分自身への問いかけが、病気というメッセージを受け取るはじめの一歩です。